今の日本で《修身》と言えば,儒教的,封建主義的,軍国主義的教育の代名詞といったところでしょうが,元々この語は明治のはじめ,福沢諭吉など慶應義塾のひとたちが19世紀米国の道徳論 moral science から創った翻訳語です。当時の米国ではフランシス・ウェイランドの道徳教科書 The Elements of Moral Science が広く読まれていたようで,福沢諭吉が教材に用いたのも恐らくこの書であろうと推察されます。実学偏重だった幕末明治の洋学者の中にあって,儒仏の旧弊を一掃すべく,西欧近代的な徳育の必要性を強く感じていたのでしょう。

📖 hup.harvard.edu/catalog.php?is

これが公的な学校教育に採用されるに及んで《修身》という語が著しく権威主義的,国家主義的色彩を帯びるに至ったことは確かだとしても,道徳教育を一律に反動視してきた日本の「戦後教育」はこれまた極端に過ぎないか? 元々《修身》なる語が「文明開化」すなわち西欧的近代化の所産。このいわば福沢パラダイムを超える教育理念を日本の護憲リベラルが有しているのか疑問です。

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びっくり。戦前の『少年文學集』という本(改造社1928年刊)を読んでいたら,かの幸田露伴が「番茶會談」という1911(明治44)年の小説の中で,ニコラ・テスラの自由エネルギーの構想をとりあげているのを発見。作品は,読書好きの少年たちの一団を相手に,作者の分身とおぼしき隠者風の老人が種々の雑学を開陳しつつ「少年よ大志を抱け」的な話を語って聞かせるものですが,その中で老人は「無線電力輸送」について,無線電信と違って技術的に極めて困難としつつも,もし可能になれば,

《動力が非常に廉價で供給されることになるから,工業でも農業でも水陸の運輸でも,何でもが非常に容易になつて,而して世界の狀態が大變化を遂げるに至るだらう》

と語り,この構想を抱く発明家テスラを《英雄の氣象である》と称讃します。日本の小説家でこんな話題に興味を示すのは一部のSF作家ぐらいのものなのでは? この点,幸田露伴の作品には未発掘の鉱脈が数多くありそうですが,文体や教養が現代とかけ離れているし,今どき誰も読まないか…。

昔おぼえた韓国語の再学習をも兼ねて,ハングル版聖書を辞書を引き引き読んだりしている今日この頃。文語調の訳文なのでなかなか難しいのですが,そんなとき日本の文語訳聖書を参照するとすんなり理解できてしまうことがままあり,少し驚いています。恐らくは,もともと日本の文語訳をベースに訳文が作成されたのではないか。

いま日本の教会で用いられている口語訳の聖書は,日本語の翻訳としてあまりにも貧弱なので,この国でクリスチャン人口が増えない一因なのではとすら思うほどです。多くのひとが名訳と認める戦前の文語訳は,基督教会から顧みられないまま埃をかぶっています。その点,格調の高い文語体を現在も堅持している韓国は立派です。基督教に関して,両国の活力の差はこのあたりにもあるのかもしれません。

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現代日本の政治的諸問題に立ち向かうべく,第2次大戦後アメリカから憲法を通じて与えられた平和主義,個人の尊重,人権擁護といったお題目を唱えることに,果たしてどれだけの有効性があるのか。極めて疑わしいと思う。そもそも当時の米国がそんな理想とは程遠い国だったのだから。日本に伝えられているだけでも,エーリッヒ・フロムやシモーヌ・ド・ホーヴォワールなどの証言がある。私が のタグを付している諸投稿 [mstdn.io/@mr_absentia/tagged/%] をご覧あれ。

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《イスラームは宗教ですから,何よりも,祈りの方法を教えます。どんなときに,どんなふうに神にお願いすればよいのか,その方法をみなに分け与えるのです。

もし,イスラーム教徒ではなく,他に宗教もなく,しかし,何か生きる道を求めている,精神の導きを求めている人がいたとしたら,そのような人も,神に祈りを捧げることができます。それは,

「どうか,私に私の進むべき道を示してください」

という祈りではないでしょうか。

ムスリムたちは,祈りの最後にアラビア語で「アーミーン」と言います。キリスト教で言う「アーメン」と同じですね。「どうか祈りがかなえられますように」 という意味です。読者の皆様の祈りも,それがどんな祈りであれ,すべてかなえられますように。アーミーン》

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【読書】 シモーヌ・ド・ボーヴォワールのアメリカ論。米国紀行文1947年4月19日より。

出典: 『アメリカその日その日』(河上徹太郎訳,新潮社1956年)

《暴力とはおのおのが自分自身に,自分の情熱に,自分自身の意志に執着している正真な証拠であり,暴力を全面的に拒否することは,すべての客観的真実を自己から拒否することであり,抽象的主観性の中にとじこもること。筋肉の中を通らない怒りや反抗は想像だけに止まることだ。自身の心の動きを地球の表面に刻みつけることができないのはおそろしい失意である》

― シモーヌ・ド・ボーヴォワール『第二の性』(生島遼一訳,ボーヴォワール著作集6,人文書院1966年)

《…こんにち用いられている教育方法で,じっさいには独創的な思考を妨害しているいくつかのもの…その一つは,事実についての知識の強調,あるいはむしろ情報の強調というべきものである。より多くの事実を知れば知るほど,真実の知識に到達するという悲しむべき迷信がひろまっている。何百というバラバラの無関係な事実が学生の頭につめこまれる。かれらの時間とエネルギーは事実をより多く学ぶためについやされ,ほとんど考える暇はない。たしかに,事実についての知識のない思考は,空虚で架空である。しかし「情報」だけでは,情報のないのと同じように,思考にとっては障害となる》

― エーリッヒ・フロム『自由からの逃走』(日高六郎訳,東京創元社1965年新版)

【読書】 社会心理学者エーリッヒ・フロムの1941年の著書『自由からの逃走』の第7章第1節「個性の幻影」より。多くの日本人が素朴に信じている《欧米人は個人主義的で個性尊重》といった通念が,実は欧米社会のイデオロギー=虚偽意識でしかないことが明確に述べられています。第2次大戦期,日本に憲法13条がもたらされる前に書かれた論述であることに注目する必要があるでしょう。抜粋となりますが御一読を。

出典: 『自由からの逃走』(日高六郎訳,東京創元社1965年新版)

ちなみに附言しておけば,精神医学者や心理学者 - かつての土居健郎や河合隼雄のような - が現実の社会問題に対して語る批評的言辞を鵜呑みにするのは禁物です。こうした論者は往々にして,社会万般が人間心理の観点から合理的に理解可能だと考える心理主義の弊に陥りやすい。

社会心理学者エーリッヒ・フロムは『自由からの逃走』の中で,ナチズムの精神史的起源をルター,カルヴァンの宗教改革に求めてその心理的基盤を分析していますが,論述に先立って次のように注意しています。

《宗教的教義や政治的原理の心理的意味を研究するとき,まず第一に心にとめなければならないのは,心理学的分析はその原理の真理性についての判断は含まないということである。この真理性の問題は,問題それ自身の論理的構成という面からだけ決定することができる。ある原理や思想の背後にひそむ心理的動機の分析は,その原理の妥当性や,その原理のもっている価値についての合理的判断にかわることはできない》 (日高六郎訳)

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久々にソーシャルメディアの世界を覗くと,やはりネットは基本的に体にも心にも悪いと実感する。なによりも時間の浪費が甚だしい。 Twitter のタイムラインを追ったり YouTube のビデオを探したりするのに要した時間で,いったい何ページ本が読めたことだろう。しかも最近はネット検閲が常態化しているから偏向情報,虚偽情報の類も多い。初期の頃と違って今の Twitter では単なる follow にすら余計な神経を使わされるところがある。国際情勢などについては若干の有益な知識情報もインプットできたけれども,やはりスローウェブ生活を基調に,ソーシャルメディアとは意識的に距離を置くのが賢明だろうと思う。当方の Mastodon アカウント, follower 数からみると閑古鳥が鳴いている感じだが,たまに読書感想文を書くぐらいがちょうどいいところなのかもしれない。

【読書】 先日はシモーヌ・ド・ボーヴォワール1947年のアメリカ紀行文を引いて,米国の個人主義に対する著者の見解をご紹介しましたが [mstdn.io/@mr_absentia/10679741] ,ボーヴォワールが示しているネガティヴな米国観は決して彼女の個人的偏見とは思えません。以下にやや詳しく引用するのは,社会心理学者エーリッヒ・フロムの1941年の著書『自由からの逃走』の第4章「近代人における自由の二面性」からの文章。早くも1940年代,欧米「民主主義国家」において「個人」の理念が完全に有名無実化していたことが示されています。著者フロムはすでに1930年代ドイツから米国へ亡命していますので,これは彼の米国生活に基づく見解として信頼できるものです。

出典: 『自由からの逃走』(日高六郎訳,東京創元社1965年新版)

【読書】 以下に引用するのはシモーヌ・ド・ボーヴォワール1947年のアメリカ紀行文。1947年といえば日本国憲法が施行された年にあたります。民主主義,個人の尊重,男女平等,表現の自由…こうした「解放」をもたらしたアメリカ合衆国の内実はいかなるものだったのか。私は改憲論者でもなんでもありませんが,米国を近代化先進国として盲目的に崇拝する気風は日本の護憲左派・リベラルの間に未だ支配的であるようなので,彼女の怜悧な批評をこゝにご紹介することは決して無駄ではなかろうと思います。耳ある者は聴くべし。

出典: 『アメリカその日その日』(河上徹太郞譯,新潮社1956年)

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